
戦国武将を訪ねて‥
「佐竹義宣」公

出羽国久保田藩初代藩主「佐竹義宣」公を訪ねて「久保田城」へ。

1600年「義宣」公は「関ヶ原の戦い」において家中での意見が分かれ東軍とも西軍ともいえない中立的な態度を取る。1602年5月8日「家康」から「出羽国」への国替えを命じられる。7月27日付で出羽国秋田へと転封された。54万石から20万石への減転封である。1602年9月17日秋田「土崎湊城」入城。後に「土崎湊城」は廃城。1603年5月から築城が始まった「久保田城」を本城とすることになる。その理由は「土崎湊城」は平城の為、防衛に向かず54万石規模の家臣団を抱えていた「佐竹氏」にとって「土崎湊城」は手狭であった事による。

「梶原政景」と「渋江政光」を普請奉行とし神明山に築城を開始する。


「久保田城」は「平山城」とした。「石垣」は基底部にあるのみ。その上に「土塁」を盛り「天守」も持たず塁上に「櫓」を建ててその代わりとした。以下は「義宣」公より後の痕跡。

「中土橋門跡」。

「松下門跡」。

「長坂」。

「長坂門(二ノ門)跡」 。

「御物頭御番所」。城内で唯一現存する藩政時代の建物。

「本丸表門(一ノ門)」(復元)。


「表門礎石」。元来は復元された「表門」の位置にあった。我々に分かるよう現在の位置に移設。

1604年8月28日 「本丸」竣工。

「本丸」に建つ「佐竹義堯」公銅像。出羽国「久保田藩」12代最後の藩主。

「本丸」に建つ「八幡秋田神社」。常陸にあった「八幡神社」を「久保田」に移したのが始まり。「義宣」公・「義和」公・「義堯」公を祀る。

「本丸」北西の高台に建つ「御隅櫓」(平成元年再建)。

元来は二層造りで物見と武器庫の役割を担った。

「義宣」公は旧家臣及び旧大名の遺臣達を能力本位で登用。積極的に開墾を進めて家中の建て直しを図り江戸中期の「久保田藩」の実高は実に45万石にまで上った。

1633年1月25日「義宣」公は「江戸神田屋敷」にて64歳で死去。法名は「浄光院殿傑堂天英大居士」。墓所は秋田市にある「天徳寺」。

