
「丹羽長重」公

先の熊本地震で大被害を受けた「熊本城」の修復にその城の修復ノウハウが生かされる事になった。その城とは東日本大震災からの復興を遂げている「小峰城」。

1627年に初代白河藩主となって大改修を行い現代に繋がるまちを造った「織田家」の家臣「丹羽長秀」公の嫡男「丹羽長重」公を訪ねてみた。「長重」公が築城した「小峰城」は総石垣造りの城で東北地方では数少ない造りの城である。「長重」公の築城技術は幕府からも評価されていた。1枚目の写真は「清水門」と呼ばれる部分だがその半分、白い囲いより先は現在も修復中で立ち入り禁止となっている。

「清水門」手前の「水堀」。「清水門」を抜けると「本丸」南面の「高石垣」が目の前に迫る。

そこには特徴的な石積がある。獲物を射すくめる鷹の目に例えられているという。ここを突き当たって右側に廻り込むのが正規の登城ルートである‥

「本丸」への正門「前御門」にあたる。

現在は修復中の為このルートは立ち入り禁止となっている。よって「本丸」に入るには左側に廻り込む‥


「桜門」からの登城となる。

「本丸」に建つ「三重櫓」とそれにつづく「前御門」。

「本丸」を囲む「多聞櫓跡」。この「石垣」の上にかつては「櫓」がのっていた。

「多聞櫓跡」から「清水門」方向。その先の芝生部分が「二の丸」。

「本丸」北側から見た「帯曲輪」。

「前御門」頭上の「櫓」からは「前御門」を抜ける侵入者が一目瞭然である。
忠実に復元された「三重櫓」内。





復元された「三重櫓」内。

「三重櫓」を復元するにあたり戊辰戦争時の鉄砲跡が残る地元の杉を復元用材として用いている。

「石落し」。

「長重」公が素晴らしいのは旧阿武隈川を活用した「蛇頭堀」であろう。

「蛇頭堀」越しから見た「富士見櫓跡」。

「蛇頭堀」越しから見た「帯曲輪」。

「蛇頭堀」越しから見た「三重櫓」。

北側にも積み上げられた「石垣」が部分的に残っている。

「長重」公は寛永14年閏3月6日江戸桜田上屋敷にて没している。


墓所は「小峰城」から南1.2km程にある「白河藩大名家墓所」に埋葬された。築城の名手と称えられていたが「小峰城」の改修・城下の整備により「丹羽家」の財政は困窮していたと言われている。


